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相続専門情報誌「Appoggio」アポジオ発行中!

Appoggio vol.7 2007年4月発行


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「土地オーナーは戦略を立てること」
ハウスメイトグループ代表 井関清氏に聞く

土地オーナー受難の時代には戦略が必要――ハウスメイトグループの井関清代表は、少子化時代の相続対策にこんなアドバイスを寄せている。賃貸住宅管理分野のパイオニアとしてハウスメイトグループを築き上げた井関代表。ビジネス環境が大きく変化している今だからこそ所有不動産をどう有効活用するかに大きなチャンスがあるとみている。賃貸管理の雄に直撃した。

―― ハウスメイトグループの井関清代表は、これまで賃貸住宅管理というジャンルを開拓されてきた第一人者ですね。井関代表からみて、いまの不動産ビジネスの環境を全体的にどうみていらっしゃいますか。
井関 まず大きな流れとして、日本は2005年から人口減少社会に突入したということです。少子化や高齢化がどんどん進んでいます。これに加え、2007年からは団塊世代が退職期を迎えますね。この世代を対象としたビジネスというのがさまざまな分野で現れてきています。
こうしたなか、不動産の事業環境もまた大きな転換期のなかにあると言えるでしょう。
―― 具体的にはどのような状況でしょうか。
井関 所有することが全てなのかが問われる時代に入っていると言えます。
例えばここ数年、都心部を中心に大量の分譲マンションが供給されました。しかし仮に5,000万円の分譲マンションがあったとしても、所有した時点から物件の資産価値は下落していくのが日本の現状です。10年後にその価格が4,000万円までに落ちるとすると、トータル的には賃貸で居住し続けることと変わらなくなります。
最近では、ファミリー世帯の減少や長男・長女の結婚による「家余り現象」などにも見られるように、住宅は市場に余ってきています。こうしたなかで、所有することが本当に良いのかが、一層問われてきているということです。
―― いまだに所有への意識が強い人も多いと思いますが。
井関 もともと日本人は賃貸派だったことをご存知でしょうか。とくに明治・大正時代は、一般庶民が住宅を所有するという意識はかなり希薄でした。
文豪に夏目漱石がいますよね。漱石は、実を言うと私の出身校である松山東高校(愛媛県)で教鞭をとっていた経緯があるのですが、漱石も自宅を所有したのは文豪として名を馳せてからだと記憶しています。
それが所有へと意識が変わるのは、とくに戦後、国が持家政策を推進したからではないでしょうか。
ただ、現在は間違いなく賃貸派の流れというのが出てきています。国の政策的な視点からみても、所有だけでなく賃貸という選択は有意義だと思います。住宅を購入すると、住宅ローンや住宅にかかるさまざまな諸経費で可処分所得が減ります。つまり、自分で使えるキャッシュフローが少なくなるわけです。
賃貸住宅に住み、可処分所得がより多くなるなら、それは消費につながります。経済の活性化という視点からも賃貸という選択は有効でしょう。私は、これから賃貸の時代だと思っています。
(・・・続きは本誌アポジオvol.7で)


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「都市再生の時代が始まる」
江里口吉雄・本誌編集長

“70年代の国分寺という街”
最近、丸の内の「コットンクラブ」でジャズを堪能しました。ジャズクラブに行くのはずいぶんと久々のことです。実は、30数年前の学生時代に自由が丘の「ファイブスポット」によく通っていました。当時は、ジャズ喫茶ブームでジャズ喫茶なるものが渋谷の百軒店や新宿や吉祥寺に何軒もありました。一杯のコーヒーで終日ジャズに聴き入ってトリップしていた時代です。
国分寺に村上春樹がピーターキャットというジャズ喫茶を開いた1974年の春のことです。ピーターキャット特製のレアチーズケーキが美味しかったのを覚えています。当時の村上春樹はコットンスリムのパンツをいつもはいて静かにカウンターの前でコーヒーを入れていました。ジャズのLPを丁寧にふき取ってプレーヤーに静かにのせるのを見てから音を待つ若き村上春樹の姿をおぼろげに想い出します。
国分寺の街は、当時この「ピーターキャット」のお店の目の前に「ほんやら洞」がありました。「ほんやら洞」は、その後、西荻窪に移転していきました。当時の国分寺の街には、カレーが美味かった「ぐるまん」がありました。たまたまそうした国分寺のカルチャーの中で生活していた筆者は、ジャズとロックンロールの混在した音の世界でお店に集まる若者集団の1人としてお店のカウンターで1人静かにトリップしていたのです。
そんな70年代の若者文化発祥の地である国分寺の街には、新宿のフーテンから流れてきた若者のたまり場でもあった「ほら貝」がありました。「ほら貝」は、日本のフリークヒッピーのたまり場にもなっていました。「ほら貝」で飲んでいた若者は、いつのまにかインドに旅たつことになっていました。また、インドから帰国するとすぐに帰る先が、この「ほら貝」だったのです。携帯電話も何もない時代のコミュニケーションの手段が井上陽水の歌詞にあるように「…手紙にしたためていました」という時代でもあったのです。そして、時間の流れが30年以上も経つとそれは、ひとつの記憶でしかないのですが、ひとつひとつのシーンが今でもフラッシュバックすることがあります。

“団塊世代に静かに浸透するミクシー”
“相続FPの執筆はシングルモルトとともに”

(・・・続きは本誌アポジオvol.7で)




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